私にとってはきたろうさん、伊沢磨紀さんが見られるという期待の公演だったのだが見て思ったのはそれ以上に別役実さんの脚本がすごかった。あぁ戯曲ってこういうのなんだぁ、と素人なりに感心する。なんというか、こういうしっかりとしたのを見るとああ俺が普段見てる芝居ってフワフワした菓子パンみたいなものなんだなぁ…と。別にけなしているわけではない。菓子パンは必要だ。あ、いやそういう話じゃなかった。
ある男が人間にある「会議本能」の実験のため街中に「会議場 この先→開会六時三十分 時間厳守」というステッカーを貼る。それに引きつけられるようにして集まった男女。会場設営に手間取り、設営業者と主催者の男を巻き込んで、いつしか会議は進行していく…。
「なにを」「なんのために」議論しているのか参加している各人が把握しないまま謎の会議は進んでいく。途中から割り込む人間も、その場で行なわれている議題がなんなのかが見えていない。司会も、仕切っているつもりなのについには見失い…客席の我々もいつしか「何」を議論していたのかわからなくなる…そして突然の事件。寸断。
「みんなが加害者なんだ」「それを忘れているだけだ」という男4の言葉は、一見、過去の戦争責任を突き付けられる日本人、というよな暗示を誘いがちだが多分それは違うだろう。この、具体性を一切排除し登場人物の関係性だけで話をすすめる舞台に、その解釈は似合わない。これはむしろ我々人間のなかに本質的に潜む他者への無理解からくる攻撃性(もちろん無意識なもの)と、それに対応する身勝手な被害者意識の両方を指すのではないか。
あなたは数人で会話(会社などでの非公式な会議、などを思い浮かべてください)しているときに、他人の言葉を聞いて「あ、それ言ったら彼(自分以外の他人)傷つくんじゃないか?」と思ったことはありませんか?そしてそういう発言をした「彼」はそれに気がつかないか、「あ、やばい」と思ってもそれは表情に出さずその対象の「相手」を窺うはずです。そしてその表情が変わってないのを確認してそのことは多分意識から消えてしまうはずです。しかし、その「相手」の彼は深く傷ついている。そして傷を負わされたものはそのことを忘れないのです。
でも「傷ついた彼」も同じことを他人にしている。そうやってお互いがお互いを無意識に傷つけ、些細な憎悪を心の中に重ねて蓄積しているわけです。お互い同士うまくいってるときは、こういう蓄積は表に出ません。しかし、何かの弾みでたがが外れると我々は昨日までの知り合いに恐ろしいほどの残酷性を発揮することが平気で出来るわけです。
偏狭な個人では処理しきれない関係性を抱え込んだこの人間社会で生きている私達は、みんな心の中に「憎悪の繭」を育て持っているのです。暴発して犯罪を犯してしまう人は、そういう自分にあまりに無自覚であると思えて仕方がありません。「自分はいつでも悪になりうるんだ」という自覚と自戒をもって混迷の世紀末を乗り越えましょうね(笑)。